新・平家物語(ふたたび)

現在、吉川英治の「新・平家物語」を読んでいます。講談社から出た、多分最初の全集で、長い長い「新・平家」が全6巻でおさめられている本です。

NHKの大河ドラマでも「平清盛」をやっているので、以前読んでいて途中でやめてしまったのをもう一度読んでみる気持ちになりました。

「新・平家」では清盛は、ちょうど真ん中あたりの3巻で亡くなります。

テレビでは、松山ケンイチさんの清盛は、まだまだ若く、精力にあふれていますが、今読んでいる小説では、かなりやつれてきてしまいました。

元々平家物語は、諸行無常、つまりどんな栄耀栄華を誇ったものでも滅びてしまう、というのが中心テーマだと思います。
ただ、吉川英治の「新・平家」では、清盛は、そこまでの悪人にはとても思えないのです。
大河の「清盛」も、出生の秘密を抱えて、屈折したコンプレックスいっぱいの清盛を、松山さんは見事に演じていますが、なにやら人間らしい匂いが漂う魅力的な人物、それが平清盛であるようです。

どうして「悪人」であるはずの清盛が「人間らしい」のか。

おそらく、小説版の清盛も、松山ケンイチの清盛も、非情になれず、一つ一つの事象にくよくよ悩み、苦しんでいるからだろうと思います。

ちょうど、私たちがそうであるように。

清盛がなくなってしまうと、「新・平家」はその大きな輝きをひとつ失ってしまいます。

どんな物語もそうですが、敵役は強力でなくてはなりません。平家を支えて奮闘した強大な清盛が消えてしまうと、物語から大きな人物が退場してしまって、火が消えたようになってしまうのです。

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