歎異抄の衝撃

NHKの「100分で名著」今月の名著は「歎異抄」でした。

全く知らない名著で、興味を持って聞きました。

おどろいたのは、タイトルの「歎異抄」というのは、親鸞の弟子、唯円というひとが、亡くなっている師、親鸞の教えと異なった教えが世に広がっていることに対して、嘆いたことからきている、ということでした。

仏教は、もともと修行して、苦行して、悟りに達するものであったのですが、法然、そしてその弟子、親鸞は、これに対して疑問を持っていたそうです。

つまり、家を捨て、修行に明け暮れて、悟りに達する人たちのものではあってはならない、むしろあるはずがない、というものでした。

そこで、南無阿弥陀仏ととなえることで、成仏できる、というのが、本当の仏教のあり方ではないか、と新しい考えを教えとして打ち出した、というものでした。

ただただ、南無阿弥陀仏と唱えるだけで、誰もが救われる、というのは、修行している人たちから見れば、「そんなばかな」ということであり、「俺たちの修業はどうなるのか、何の意味もないということか」とむかしながらの考えを持つ人たちからの攻撃を受けてしまいます。

法然や、親鸞は、僧でもなければ、民でもない、というポジションに落とされて、いわば、仏教界における異端児になってしまいます。

それでも、「誰でもお経を唱えるだけで、救われる」という「他力本願」の魅力はとてもあります。

どのようなものでもそうだと思いますが、世の中には、苦労して成功した人と、苦労したけれど、成功しなかった人がいます。

修行して、自力本願で、悟りに達した人は、おそらく、努力なくして、悟りなし、と考えているでしょう。

でも、苦労したけれども、悟りに達することのできなかった人もいて、こうした人たちは、だから駄目なのか、とは言えないのではないか。

こうしたところを、歎異抄は救ってくれる。

人間は弱い生き物です。

常に努力を心掛けていても、時として、気の緩むときもあれば、怠け心に負けてしまうこともある。

こんな時の人を救ってくれるのが、歎異抄に述べられた他力本願なのかもしれない。

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