「時代に合わせた変更」は、必要?

先日、岩波書店から出版されていて、いまや古典となっている「ドリトル先生物語全集」というシリーズがあります。

以前、お話しした通り、わたしは小学生時代に、毎月栄の百貨店に行き、月々1冊ずつ買ってもらっていました。

ヒュー・ロフティングというイギリスの方が原作を書かれて、全12巻ものシリーズです。

最近、ようやく、新訳版が出版されることになりました。

角川文庫から、ゆっくり目のペースで出版されています。

この訳をされている方が、河合祥一郎さんといわれるかたです。

最近、この文庫版も何冊が手に入れたのですが、そのあとがきに、「いまは、イギリス本国の原作は、黒人に対する扱いなどに問題があるようで、内容が改訂(書き直し)されつつある」という指摘がありました。

わたしは、長年にわたって、日本の文庫では、作品を書き直すことはせず、原作のまま、出版し、巻末に、作者の生存時には、xxという事実があったけれども、作者が故人であることから、原作を変えることはせず、ただ、こうした差別などがあって、これは現在では許されることではないので、注意してほしい、という但し書きがついている、というのが、一般的です。

実は、アメリカや、イギリスでは、こういった文学(エンターティメントも含まれます)などが、削除されたり、書き換えられたり、出版が取りやめられたりしています。

現在、21世紀では許されないかもしれない表現なのかもしれません。しかし、少なくとも、極端なエロ、残酷表現であれば、やむを得ないかもしれません。過去の事実として、差別は存在したし、少なくとも、物語上、当時の事実は記録されるべきだと思います。

たとえば、アメリカにおいては、「アンクル・トムの小屋」は黒人差別をあつかっているので、出版を見合わせたり、かなり原作とは違った形でのみ、出版されているという現状があります。

でも、これでは、過去の本当の姿を残すことでのみ、伝えることのできる事実が消滅してしまいます。

ドリトル先生物語においても、執筆当時、黒人が、ドリトル先生一行に対して、迫害をしてきます。

このとき、ロフティングさんの自筆の挿絵によれば、黒人として、いささか滑稽に書かれています。

だからと言って、これをすべて割愛してしまうのは賛成できません。

すくなくとも、ドリトル先生シリーズの第1作、「ドリトル先生アフリカゆき」では、アフリカ大陸に到着したドリトル先生の一行を、地元の黒人の王様が、捕まえて、言うことをきかせようとします。

すくなくとも、小学生の時の私にとっては、これは、当然の物語の流れでしたし、だからといって、差別意識を持ったわけでもありません。

何しろ、アフリカのサルに救援を求められてやってきた一行は、その土地の人間の王である、黒人たちに捕まるわけで、それを地元のサルたちが救出する流れなのですから、何ら矛盾はありません。

その後も、物語の続編では、この黒人の王様の息子が、イギリスの有名大学に留学しており、ドリトル先生がこの息子のおかげで、命を救われたりするのですから。

ドリトル先生以外に、わたしが愛読している「チャーリーと、チョコレート工場」などを書いた、ロアルド・ダールという作家の作品も、ずいぶん書き換えられてしまっているとのことです。

わたしは、幸い、改訂前のダール作品をいくつか手に入れることができましたが、そうでない改訂版が、どのように手を加えられたのか、考えると、悔しい思いがします。

 

 

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